山城の 久世の鷺坂 神代より 春は萌りつつ
秋は散りけり
               柿本人麻呂
          
(やましろの くせのさぎさか かみよより はるは
はりつつ あきはちりけり)

意味・・ここ山城の久世の鷺坂では、神代の昔からこの
    ように春には木々が芽ぶき、秋になると木の葉
    が散って、時は巡っているのである。
 
    たえず往還する鷺坂の景が、いつの年にも規則
    正しく季節に応じて変化する様を、神代の昔か
    ら一貫してこうだったのだと感動した歌です。

 注・・山城の久世の鷺坂=京都府城陽市久世神社の坂。
   萌(は)り=春に草木の芽や蕾がふくらむこと。

出典・・柿本人麻呂=かきのもとのひとまろ。生没年未
    詳。710年頃の宮廷歌人。
 
出典・・万葉集・1707。

感想・・春には木々が芽吹き秋には木の葉が散る、この事
    は神代から続いている、と言っている。
    神代から続いている事例には、朝日が東から出る
    と月は西に沈む、と柿本人麻呂は次の歌でも言っ
    ている。
 
    「東の野にかぎろひの立つ見えて、かへり見すれ
    ば月かたぶきぬ」(万葉集・48)
 
    (東方の野には曙の光が射し初めているのが見える。
    後ろを振りかえって見ると、西の空には月が傾い
    て没しようとしている。)
 
    毎年春には木々が芽吹き、毎日朝日が出る、と誰
    もが否定しない当たり前の事を言っている。
    何故、柿本人麻呂は当たり前の事を問題提起した
    のだろうか。
 
    「東の野に・・」の歌の前に人麻呂は長歌を詠ん
    でいます。
    人麻呂が軽皇子のお伴をして安騎野(あきの・奈良
    県宇陀郡)に来た折、かって軽皇子の父君である草
    壁皇子の狩のお供をして安騎野に来た事を回想し、
    草壁皇子に対する追憶と憂愁を歌っています。
    草壁皇子はこの時点で亡くなっているという事です。
 
    草壁皇子らの関係者の年齢を見ると皆若死にしてい
    ます。
    大友皇子(39代天皇、648-672。24才)
    大津皇子(天武天皇の子、663-686。23才) 
    草壁皇子(天武天皇の子、662-689。27才)
    軽皇子(42代天皇、草壁皇子の子、683-707。24才)
 
    この頃壬申の乱(672年)があり、大友皇子と大海皇
    子(40代天武天皇)が争い、大友皇子は自害。
    また、大津の皇子は草壁皇子への反逆で惨殺されて
    います。
 
    人麻呂は宮廷歌人なので天皇や皇子と接触してい
    ます。
    皇子が人寿を全うせずに若死にしているのに心を
    痛めていたと思います。
    自然は全く変わらずに運行しているのに、人は寿
    命を全う出来ない。
    自然と同じような態度で過ごせば、欲望を前面に
    出さないという態度で過ごせば、いいのだと。
 
    相手が困っても自分の欲望を満たしたいとなれば
    争いになる。
    その争いが、人寿を全う出来ない原因だと見てい
    ます。争いの無い世の中になって欲しいと。
 
    参考の言葉です。
 
    あらゆる苦しみは
    自らの幸せを追い求めることより生じ
    悟りは
    他者のためを思うことにより生ずる
    それ故、自己の幸せと
    他者の苦しみをまさしく交換する
    それが菩薩の実践である。